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2019年5月11日

悪魔の言葉 (4) 「人生に遅すぎるということはない」

私が大嫌いな言葉の1つ。blog などで書いている人は時々見かける (1, 2)。

でも、そういうことを言う人に訊いてみたい。「がん検診を受けなかったことが原因でがんが進行するまで発見できず、既に末期で医者から『余命1週間』と宣告されている人に向かって、その言葉を言えますか?」

このままでは定義が曖昧なので、もっとちゃんと定義し、考察してみよう。

人生には様々な「こと」がある。それらを「事1」「事2」「事3」「事4」…「事i」…で表すこととしよう。

それぞれの「こと」について、「遅すぎる」「遅すぎない」が評価される。この評価関数を f(x) と呼ぶことにしよう。

すると、表題の「人生に遅すぎるということはない」は、{y|「遅すぎる」=f(事1~n)} が空集合になる、ということを意味する (数式はかなり略した)。

これはあり得ないだろう。「余命1週間と診断された末期がん患者が、その時点から全快すること」なんて、とても実現しそうにない。


別の考察をしよう。話を簡単にするために「過去に z を始めた」「今から z を始める」「今は z を始めず、未来において z を始める」の3つの「こと」を考える。それぞれについて、「遅すぎる」「遅すぎない」が評価される。

表題のようなことを言う人は、「過去に z を始めた」ということが遅すぎるかどうかと、「今から z を始める」ことが遅すぎるかどうか、の2点しか取り上げない。そして、どちらも「遅すぎる」と評価されることはないから、今からでも始めろ、というようなことを言う。

でも、現実は違う。「今は z を始めず、未来において z を始める」ということが遅すぎるかどうか、はとても大きな違いを生む。

具体的に考えてみよう。私は、大腸内視鏡によるがん検診 (以下、単に「がん検診」と略) を受けたことがない。そして、大腸がんがない身体でありたい。「今はがん検診を受け始めず、未来においてがん検診を受け始める」ということが恒常的に遅すぎないのであれば、私はがん検診を受けないだろう。なにしろ、人生のどの瞬間にがん検診を受けても遅すぎない、つまり人生のどの瞬間でがん検診を受けても「大腸がんがない身体」に戻れることが保証されているのだから、今がん検診を受ける必要が全くなくなるからだ。

「人生に遅すぎるということはない」が真実であれば、物事はどれだけ先延ばししても大丈夫である。人生は本当にそういうものだろうか。


実はこの「遅すぎることはない」という話、元はかなり有名な4コマ漫画で普及したもののようである。で、「なんて悪いことを普及させたのだろう」と思い込んでこの4コマ漫画を読み直してみたのだが…私は勘違いしていた。漫画に登場する黒柳徹子氏は、「何事も始めようと思い立った時に遅すぎる事は無い」と言っているだけだった。これは、「人生に遅すぎるということはない」とはかなり異なる。

言葉に鈍感な方は違いが分からないだろうが、賢明な皆さんなら以下の3つの命題が全く異なることを感じるだろう。

  1. 「人生に遅すぎるということはない」
  2. 「何事も始めるのに遅すぎることはない」
  3. 「何事も始めようと思い立った時に遅すぎることはない」

1. は、人生で発生しうる全ての「こと」について遅すぎるという評価が出ることがない、という命題である。2. は、「始める」ことに限定して、遅すぎるという評価が出ることがない、という命題である。3. は、「始めようと思い立った時」限定で、遅すぎるという評価が出ることがない、という命題である。

つまり、3. は、思い立った時よりも後なら遅すぎないとは限らない、ということも言っているのである。まあ、この 3. の命題であっても私は賛同しないが、1. のような過剰に楽観的な命題に比べれば、はるかに現実的である。


私は、自分の長期的な行動について、「遅すぎた」と思ったことは殆どない。逆に、「早すぎた」と思ったことはある。私は、自分の人生の中でやりたいことがとてもたくさんあり、死ぬまでにそれを全て実行するにはとても時間が足りない。年齢を理由に「遅すぎるから始めないでおこう」などと感じたことは1回もない。色々なことがやりたくてやりたくてたまらない。でも、私の時間・体力・気力は有限だから、やりたいことに対してこれらを計画的に投入しないと、思った成果が出にくくなる。なのについつい色々と手を出してしまうのだ。だから私は、私自身に「人生には『早すぎる』はあり得る」と戒めを科す必要があるだろう。どんなにやり始めて見たくても、今、手を出してはいけない、という状況だ。

一方で、色々な検診を受けていないことも事実だ。私は、将来、がんに罹って「遅すぎた」と感じることがあるかも知れない。「人生に遅すぎるということはない」などという悪魔の言葉に惑わされたりせず、ちゃんと検診を受けに行こう、と思い直した。

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コメント

> このままでは定義が曖昧なので、もっとちゃんと定義し、考察してみよう。

遅すぎるの定義が抜けたまま進んでいます。
この標語の趣旨は遅すぎるの捉え方を変えることなのでここを雑にしては台無しでしょう。ちゃんとした土台の無いところに積み上げてしまっているように思います。

投稿: well defined | 2019年6月 3日 18時11分

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