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2010年11月19日

『自閉症裁判』と加害者の妹の人生

『自閉症裁判』という書籍を図書館から借りてきて、かなり飛ばし飛ばし読んだ。これは、レッサーパンダ帽男殺人事件 (の加害者) について書かれた本である。全体の分量の2割も読んでいないが、気になったところだけ抜粋する。いずれ時間があったら、この本と相田みつをについて語りたい。

なお、文中の「父」「妹」「弟」は、この事件の加害者 Y から見た続柄である。

札幌の自宅には妹がいる。妹は重い病気を抱えていた。これまでに少なくない金銭を、その妹に無心しつづけてきた。カセットデッキやらなにやら、妹の大事な物を勝手にもち出して、金に換えたことも1度や2度ではなかった。(p.10)
1981年、祖母の死を機に兄夫婦と遺産分与し、同じ中央区の 3DK のアパートに転居する (建替えのため5年後に再転居)。88年、男は札幌市内の高等養護学校に入学する。そのころより母親は体調の悪化を訴え始め、89年に入院し、翌年に他界。白血病だった。経済的にも精神的にも家族を支えてきた母親を亡くしたこのころから、一家の歯車が狂い始める。母親の収入が絶えた後は経済的にも極端に困窮し始め、200万という入院費用を母親の兄弟に立て替えてもらったり、生活費の借金がかさんでいくようになる。それもこれも金銭の管理がうまくできず、あればあるだけ使ってしまう父親の性格によるところが大きかったという。(p.112)
怒ると前後の見境がなくなり、青竹で叩いたり、冬のさなかに子どもたちを素裸で外に放り出す。金の管理がまったくできず、パチンコ趣味のために浪費し、生活費もろくに入れない。国民年金や健康保険の料金も滞納する。大病の身となった娘を、それでもパートに行かせつづけた。どんなに極道な男なのか―それが事前に私のもっていた「父親像」だった。(p.113)
また父と兄弟2人が一時期勤めていた塗装店の社長は、「弟が一番仕事ができる。次は Y。できないなりにも言われただけのことはやった。父親が一番だめだった。いくら注意しても仕事がいい加減で、やる気が見られなかった」と述べていた。また、もう一度採用しろと言われたらどうかと尋ねたら、「お父さんなら二度と使いません」とまではっきり答えている。(p.113)
家出先から保護を求める男に対し、お金の用立てをするのは、ほとんどが妹だった。しかしその妹の置かれた状態は過酷だった。死の床にあって、最後の支援を始めることとなった共生舎のスタッフに対し、「これまで生きていて、楽しかったことはひとつもない」と語ったという。「この飽食とレジャーの太平楽にあって、それが25の若い娘が吐く言葉か」取材のさなか、共生舎の岩淵進氏はそう言うと、しばらく絶句した。その無念さが痛いほど伝わってきた。母親はすでに他界していたから、高校進学をあきらめるほかなく、妹は中学卒業と同時に家事に専念する。ちょうど父親と兄弟が塗装店で働き始めたころだった。ペンキに汚れた衣類を洗い、食事の用意をし、家の中のいっさいを切り盛りしていた。前述したように手取りは父親が握っており、わずかばかりの生活費でかつかつの暮らしを余儀なくされたという。しかし函館での事件の後、弟は単身名古屋に仕事を見つけて移り住み、父と妹は食品加工会社で働くこととなった。94年、妹が18歳のときだった。そして4年後、妹は最初の発病をする。「肺炎・多発性肺腫瘍」と診断され、肺腫瘍の摘出手術を受けた。さらに半年の後、こんどは「右大腿部軟部肉腫」のため、再び外科手術。(p.126)
1994年食品加工会社就職。(このとき18歳)
1998年5月、右脇腹の痛みがひどく受診。レントゲン写真に黒い影がたくさんあり、即入院。肺の腫瘍の摘出手術。右大腿のしこりが大きくなり、「右大腿部軟部肉腫」と診断。肺の影はこの肉腫が転移したもの。
2000年2月、頭痛がひどく意識不明で倒れる。脳に転移が見つかり腫瘍摘出手術。
8月、「転移性肺腫瘍」と診断。
12月、ガンマナイフにて脳腫瘍手術。
2001年3月、在宅酸素療法開始。
8月、身体障害者手帳取得手続き。年金手続き。
9月、身障者手帳1種4級交付。
10月、共生舎利用登録。
12月、自宅で入浴中に倒れ救急車で病院へ。そのまま入院。新居契約。世帯分離し○区へ転入。
2002年1月、身体障害者1種1級再交付。
7月、痙攣発作のため入院。
8月、再び痙攣発作。死去。25歳。
妹は生活費を家に入れていたほかに、この間の入院治療費や手術費用の過半を、自分の働いたお金で当てていた。まさに家族と病のために働きづくめの歴史だった。ここにその兄の歴史を並べてみる。
1990年3月、高等養護学校卒業。
1991年7月、札幌駅にて置き引き。9月、塗装店勤務。
1992年8月、旭川にて銃刀法違反で8000円の罰金。
1994年7月、函館で強制わいせつ・強盗未遂で懲役3年執行猶予5年。塗装店退職。
1995年2月、家出上京。5月、熊本で自転車窃盗。佐賀少年刑務所へ。
1998年2月、仮釈放。そのまま家出。
1999年4月、青森で無銭飲食。青森刑務所へ。
2001年1月、仮出獄。4月、家出し上京。4月、浅草にて殺人事件。東京拘置所へ。
2004年11月、第1審判決「無期懲役」。(pp.295-296)

この本自体は、軽度~中度の知能障害を持つ加害者をどう裁くか、また社会はどうすべきか、という問題を主眼においているが、この問題は私には重すぎる。殺された女子短大生の叔父の言葉が文中に出てくる。

「〔前略〕M ちゃん (被害者) は地雷を踏んでしまったんだと私は思う。これは事故ではないし、まして運命でもないし、運命だったとも思いたくない。地雷さえそこになければ防げたことだった。私はそう思っている。〔中略〕東京という砂漠のあちこちに地雷があって、M ちゃんは運悪くそのひとつを踏んでしまった。〔中略〕地雷は撤去して抹消するのが世の中のためだ、私はそう思う」「私は、障害をもつ人たち全員が地雷だなんて言っているのではない。M ちゃんが地雷を踏んでしまった。M ちゃんの踏んだのが地雷だった、そう言っている。地雷を世の中に戻せば、必ず誰かがそれを踏んでしまう。犯人は前科があって、刑務所に何回か入っていた。そういう傾向のあった人間を、なんでそのまま戻したのか。行政の司法の責任だと思う。」(pp.256-257)

この言葉は重く受け止めなければならないが、でも最善解は分からない。そして、この問題以上に、私の関心は加害者 Y の妹に向いている。最近、子どもが虐待されて死ぬ事件がよく新聞に載っている気がするが、この Y の妹の人生もそれと同じくらい壮絶なものだっただろうと推測する。

殺人を犯したのは Y だが、その父の方がもっと悪い。こんな父のもとに育ち、お金を勝手に使い込まれ、兄は勝手に妹の所持品を売りさばき勝手に家出し所持金がなくなったら帰宅の費用 (しかも本州都市→札幌である) を無心される。この、妹の人生を、どう考えたらいいのだろう。世の中、全ての人を救える訳じゃないけど、それでもこういった境遇が生み出される可能性をもっと低くしたい。私は福祉分野の仕事をしているわけではないので、こういった分野に直接関わってはいないのだが、どんなことができるだろうか。

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コメント

月並みですが、われわれは、こういう事態に直面して少なくとも「考える」事が出来る教え子を一人でも多く輩出するということでしょうね。高等教育では、入学時から卒業の間にいろいろと成長することがありますから、少なくとも「考える」という姿勢レベルにおいて、自立した青年と対面できるように。それすら理想ですが…。

投稿: クサンティッペの伴侶 | 2010年11月19日 02時34分

書き込みありがとうございます。

こういった領域に直接関わる人材でなくても、こういった領域に理解ある人材を増やすだけで、状況はかなり変わるのでしょうね。

投稿: 中尉 | 2010年11月19日 23時08分

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